2018年02月18日

野生の孔雀

チェンマイ大学キャンパス内にアーンケオという大きな池がある。周囲1キロ以上はありそうなので池というより湖といいたくなる大きさである。
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そんな池の周りをぼんやり散歩中に「あっ」と声が出てしまうような住人に出会った。まずは写真を見ていただきたい。
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見づらいと思うが写真の中央に鳥が写っているかと思う。
そう、これは「孔雀」である。
こんなチェンマイという都市に野生の孔雀が生息していたとは。久しぶりにワクワクする気持ちにさせてもらった。

実際には10メートルほどの至近距離に近づいて写真を撮ったが、いかんせんスマホのカメラ、望遠がないので小さくしか写らない。写真をもっとうまく撮ろうと更に至近距離へ近づいたが、孔雀に警戒され逃げられてしまった。こういうときは望遠が使えるデジカメが役に立つが、スマホを持ち出してからデジカメの出番は全くなくなってしまった。写真を見るとやはり物足りない。実際に肌で感じられた野生の鳥が醸し出す一種の崇高さがまったく感じられない。

しかし、こんな大型の鳥、それなりに食事量も多いと思うが何を食べていらっしゃるのだろう。生息数を増やしてほしいものだが、排気ガスと騒音でまみれるこの町の近辺で生き抜き、子孫を増やしていくということはそう簡単なことではなさそうだ。

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2018年02月04日

BNK48、タイに上陸

「AKB48」という秋葉原に劇場を持つ女子アイドルグループがいる。秋元康というプロデューサー、「いかがわしい人」といったら失礼になるので、昔「おニャン子クラブ」というアイドルグループをプロデュースして、「セーラー服を脱がさないで」という「いかがわしい歌」をヒットさせた人、彼がプロデュースするアイドルグループである。

そのグループが御存知の通り日本の芸能界で勢力範囲を広げ、さらには、名古屋版SKE48、大阪版NMB48、福岡版HKT48と姉妹グループが増殖し、それどころか世界進出まで果たし、インドネシアではJKT48、中国ではSNH48というのを生み、それがとうとうタイにまでやってきた。

その名も「BNK48」、こういうオタク文化は国内だけでコッソリやっていてもらいたいものだが、営業がうまいのか、アジアではそういうオタク傾向が強いのか、どういうわけだか、タイのテレビではBNK48は若者たちに大人気になっているようである。

(歌)Koisuru Fortune Cookie คุกกี้เสี่ยงทาย
https://www.youtube.com/watch?v=mfqJyKm20Z4

https://www.youtube.com/watch?v=eFPauBydNeU
こちらはタイのバラエティー番組。BNK48出演は10:30頃から。日本人も2人混じっているらしく、タイで有名なお笑い芸人の司会者にイジられている。14:55頃から。タイ語がほとんどできないので痛々しい。人気者になれるだろうか。

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2018年01月17日

2017年SINCEのまとめ

2016年の暮れから始めた「SINCE GO」、2017年は計94枚のSINCEを集めた。100枚に到達しなかったが、めでたしめでたしである。「だから何なんだ」という呆れた声が聞こえてきそうだが、ま、そういうことである。  

2017年度のSINCEは計4枚捕獲した。去年の「サイシンス(最新ス)」である。
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94枚のシンスを集めたが、残念ながらすべての年代に関して通し(ストレート)で揃っていない。例えば、1999年シンスと1992年シンスは6枚もあるが、1997年は一枚もないので1990年代がコンプリートしない。2000年代も2000年、2001年、2005年、2008年が歯抜けである。農作物と同じようにシンスも豊作の年と不作の年があるようである。

2010年代はいまのところすべて揃っているが、2018年のサイシンスはまだである。どこで見つかるか、なかなか楽しみである。もちろん、シンスを集めたからといって、なーんにもならないが・・・・。

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2018年01月01日

元旦2018年

深夜12時、部屋から花火の音が聞こえた。毎年、年が明けると花火が鳴る。しかし、個人なのか団体なのか行政なのか、誰がどこから花火をしているのかは全く知らない。

あけましておめでとうございます。
無事年が明けました。
地球は例年通り太陽の回りを自転しながら回転し、太陽は例年通り光とぬくもりを放射し続けてくれている。大火山もなく、大地震もなく、大津波もなく、大暴風雨もなく、株価通貨の大暴落もなく、当たり前に社会が運行している。

ありがたい。

当たり前は崩れ落ちたとき、その当たり前に気づかされることが一般なので、当たり前が静かに微笑んでくれているうちに感謝しておいたほうがよさそうである。

本日お正月のチェンマイ。
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休みの店も多く、車の混雑もいつもより少ない。
人々はのんびりしているためか、街のピリピリ感が薄く、一昔前のユルかったチェンマイに戻ったようである。

日本では初詣は神社へ出かけるが、タイでもそのような宗教施設へ出かける習慣があるのかちょっと気になり、スワンドク寺院へ行ってみた。
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人々がお参りに来ていないわけではないが、日本のような大混雑ではないので、初詣という習慣がないのだろうと思われる。

しかし日本の習慣、年が明けると仏教寺院に行き除夜の鐘を鳴らし、初詣は神社へ行って神様に祈る、というその節操のない宗教感覚が、外国から眺めるとおかしく感じる。鐘を鳴らして煩悩を消し、その足で神社へ行ってお願い事をして煩悩を生む。いいのか悪いのかわからないが、一神教のようなすっきりした思想体系の中で生きている人から見ると、その矛盾に不思議な気がするだろう。

それはともかく、手を合わせる霊的な装置が町のいたるところにあるということは、その町の空気を浄化するために大切だと思う。オッサンになってようやくそういうことに気づいてきた。できれば、ある程度の広さの、鬱蒼とした意味のない森のようなものがあると、その町はもっと住み心地がよくなると思う。人工的なもの、合理的なもの、科学的に説明可能なもの以外の意味不明なもの、いわゆる「自然」といわれるものを、町はある程度抱え込んでいてほしい。

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2017年12月15日

ブレーキ修理

9月頃バイクの修理屋でオイル交換をしたときのこと、修理の大将がバイクのブレーキがよくないと不吉なことを言った。「じゃあ、直してくれ」と言ったら、「いまは雨季で雨が降るから10月になってから直す」と言う。なんかよくわからないが、そう言われてみれば、ブレーキが確かに効かないような気がする。さっきまでブレーキに関して何の不安もなかったのに・・・・。

運転するたびにブレーキのことが気になってしょうがない。前輪のブレーキはよく効くが後輪が頼りない。12月になり時間ができたので、バイクの修理屋ではなくホンダの販売代理店の修理に持っていった。販売代理店の修理工は、後輪のブレーキに問題はないが前輪のブレーキに問題があると言った。自分の感覚とは違うことを言う。後日修理するというメンドーな展開になった。しかしブレーキは0コンマ何秒で命にかかわることになるので、そこはきちんとしたい。

その日はタイヤが磨り減っていたのでタイヤを新品にして、半日が潰れた・・・。

日を変えて、修理に持っていくと、部品を注文するという。この前は部品がなくても修理可能のようなことを言っていたが、部品が必要だと言われた。それなら前回に注文しておいてくれって話だ。バンコクから部品を取り寄せるから1週間後と言われ、その日は終了。1時間ぐらい時間がかかった。

1週間後、部品が届き修理した。時間は午後の半日がまるまる潰れた。新品同様とまではいかないが、よくなったような気がする。

バイクの簡単そうな修理でもこのように長い時間がかかってしまう。相変わらずのタイ時間だ。町は、車とバイクの数が増えすぎ、道路のインフラと運転モラルが進んでいないから、交通渋滞ばかり。ここで経験するイライラは現代的なのに、修理が長いことだけはゆるやかなタイ時間。忍耐を鍛えさせられる場が多い。ゲンナリ。

が、しかし、考えてみれば、町の修理屋で修理していたらどうなっていたのだろう。部品を取り寄せることはしない(できない)だろうから、何をどうやって直すつもりだったのだろう。バイクのいい加減な修理でもマイペンライで済まされるのか。これでは危なくてしょうがない。

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2017年12月04日

目覚まし時計の怪

今年も12月になった。もうすぐ2017年も終わろうとしている。時が過ぎゆくのが早く感じる。

思い起こせば、今年の5月に引っ越しをした。いや、引っ越しせざるを得ない状況になった。工事の騒音があまりにやかましく、耳の聞こえが悪くなって飛び出すように引っ越した。引っ越した先は、静かな場所を念入りに選んだつもりだった。が、また耳に問題が起きた。アパートは、飛行場の真裏、飛行機の通り道だったので、飛行機が通るたびに地響きがするような騒音が響いた。わずか2週間で引っ越した。

次こそは・・・・

慎重にアパートを選んだ。通りを眺め、空を見つめ、騒音計で音量を計測して騒音状況を確認し、「ここで大丈夫」と次のアパートが決定した。が、住んでみれば、部屋の位置が悪く、ベランダから外が見えにくい。よって、風通しが悪く、湿気がこもり、異様な臭いが鼻につく。何が臭うのかよくわからない。とにかく部屋にいると息が詰まりそうになる。「こりゃ、ダメだ」、部屋をチェンジしたいと管理人に申し出ると、1ヶ月待たねばならなかった。1ヶ月辛抱し、景色の見晴らしのいい部屋に移った。

「やっと落ち着ける」と思った・・・・・。

が、住みだしてみて、あることが気になりだした。隣の部屋から、しょっちゅう目覚まし時計のような「ブー」という音がする。初め「なんだろう」と思ったが、耳を痛めるほどの音ではない。容易いものだと思っていたが、日が経つににつれ、この音に苛立ちを感じるようになってきた。

とにかく変なのだ。隣の住人は何をする人ぞ、部屋にいる間2、3時間ぐらいおきに「ブー」と鳴る。タイの建物はレンガを積み重ねただけの壁で防音がそれほどよくない。「ブー」という音はけっこうな音量で鳴る。自分のスマホ以上に大きな音で鳴るから腹立たしい。なぜ隣の住人はこんな大音量で音を鳴らすのか? 耳が悪いのか、アタマが悪いのか。しかも、それが夜中にも鳴る。夜中の11時、12時に当たり前に鳴る。夜中の3時4時にも鳴る時がある。早朝にも鳴る時がある。すぐにブザーをきればいいのだが、ブザーは「ブー」と長い時間鳴り続ける。やっと止めたかと思うと、数十秒後また鳴る。止めて鳴り、止めて鳴りを数回繰り返す。目覚ましのボタンが壊れているのか。睡眠を阻害されるので腹が立つ。 

これが毎日続いた。夜寝るときは、耳栓が欠かせなくなった。

とうとう我慢できず、管理人に相談し、目覚ましを使わぬよう言ってもらった。なぜ、そんな目覚ましを使わねばならないのか、スマホのアラームでいいだろ。音量も調整できるし。そもそも目覚ましの音なのか。何の音なんだ? 何のために夜中に鳴らすんだ?

しかし、隣の住人は目覚まし時計を使うのを止める様子はなかった。すぐにブザーを消そうという意思は多少なり感じられるようになったが、「ブー」の音は毎日続いた。

「こりゃダメだ」と、またまた引っ越しを考え出したとき、管理人から隣の部屋の住人は11月の終わりに引っ越すと知らされた。「ハー、よかった」と思ったが、待たねばならない1ヶ月はすこぶる長く感じた。ブザーの音が鳴るたびに、頭のなかに「不条理」という言葉が沸き起こってきた。自分が悪いことをしていたから復習を受けるとしたら、因果の関係として理解できる。だがこの場合、因果の関係ではなさそうである。自分は相手に何もしていないのに苦しめさせられる。ま、それでも、こんな不条理、何も悪いことをしていないのに、戦争やテロにまきこまれ、家を追われ、財産を奪われ――、そのような被害者と比べればかわいいものである。忍耐力を鍛えるいいチャンスかもしれない。しかし、それでも、人間とは弱いもので、蚊が一匹部屋にいるだけで夜寝つけず体調を崩したりしてしまう。それを思うと、このブザーの「ブー」もなかなか侮れない。

いや、それとも、自分が神経過敏のノイローゼではなかろうか。自分自身の地盤も怪しく揺れる。

とにかく、ブザーの住民がいなくなり落ち着けるようになった。次は隣の部屋にどんな住人が入ってくるのだろう。静かな人であればいいのだが。

posted by 逍遥居士 at 19:07| Comment(0) | 徒然なるエッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月24日

食べ残す文化

日本国で生まれ育った人は普通、食べ残すことに対してある種の罪悪感を感じるのではないかと思う。それは人間の本能的な感覚なのか、教育によって植え付けられた観念なのか、よくわからない。ヨーロッパでもきれいに食べることは一種の美徳のようで、皿についたソースをきれいにパンで拭きとって食べ切るというのをどこかで見聞きした覚えがある。

だが、タイにきて驚いたことの一つに、タイ人の食べ残しをよく見かけることだ。経済的に貧しい国はきれいに食べ切るであろうという先入観があるが、どうやらそうばかりでもないらしい。もっともタイは経済的に貧乏という時代でもなくなっているが。

とある安食堂で。
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食事をした人が立ち去ったあと。この食堂は小汚く、もっぱら庶民が利用する安食堂で、上流階級が食べた後でも、クマが食べた後でもなく、底辺庶民が食べた後であろう。

これは決して特別な光景ではない。タイ人は「モッタイナイ」と思わないのだろうか?

温暖で雨もよく降る土地なので歴史的にも飢えた経験がなく、食べ残しても平気なのか。確かに生態系の循環で考えると、〈食べて糞をして・それが土に還って・植物はそれを栄養として育ち・人はそれを食べて〉が順当だが、〈食べ残し・それが土に還って・植物はそれを栄養として育ち〉でも問題はなさそうである。微生物にとってはどっちでも構わない。食べ残すことに罪悪感を感じるのは文化であり、洗脳された人間が抱く幻想なのか。

そうはいっても食べ残された食物を見ると、「もったいないノオ」という侘しさや、「いまに罰が当たるゾ」という不吉な思いが脳裏をよぎる。

posted by 逍遥居士 at 17:35| Comment(0) | パワーニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする