2017年12月04日

目覚まし時計の怪

今年も12月になった。もうすぐ2017年も終わろうとしている。時が過ぎゆくのが早く感じる。

思い起こせば、今年の5月に引っ越しをした。いや、引っ越しせざるを得ない状況になった。工事の騒音があまりにやかましく、耳の聞こえが悪くなって飛び出すように引っ越した。引っ越した先は、静かな場所を念入りに選んだつもりだった。が、また耳に問題が起きた。アパートは、飛行場の真裏、飛行機の通り道だったので、飛行機が通るたびに地響きがするような騒音が響いた。わずか2週間で引っ越した。

次こそは・・・・

慎重にアパートを選んだ。通りを眺め、空を見つめ、騒音計で音量を計測して騒音状況を確認し、「ここで大丈夫」と次のアパートが決定した。が、住んでみれば、部屋の位置が悪く、ベランダから外が見えにくい。よって、風通しが悪く、湿気がこもり、異様な臭いが鼻につく。何が臭うのかよくわからない。とにかく部屋にいると息が詰まりそうになる。「こりゃ、ダメだ」、部屋をチェンジしたいと管理人に申し出ると、1ヶ月待たねばならなかった。1ヶ月辛抱し、景色の見晴らしのいい部屋に移った。

「やっと落ち着ける」と思った・・・・・。

が、住みだしてみて、あることが気になりだした。隣の部屋から、しょっちゅう目覚まし時計のような「ブー」という音がする。初め「なんだろう」と思ったが、耳を痛めるほどの音ではない。容易いものだと思っていたが、日が経つににつれ、この音に苛立ちを感じるようになってきた。

とにかく変なのだ。隣の住人は何をする人ぞ、部屋にいる間2、3時間ぐらいおきに「ブー」と鳴る。タイの建物はレンガを積み重ねただけの壁で防音がそれほどよくない。「ブー」という音はけっこうな音量で鳴る。自分のスマホ以上に大きな音で鳴るから腹立たしい。なぜ隣の住人はこんな大音量で音を鳴らすのか? 耳が悪いのか、アタマが悪いのか。しかも、それが夜中にも鳴る。夜中の11時、12時に当たり前に鳴る。夜中の3時4時にも鳴る時がある。早朝にも鳴る時がある。すぐにブザーをきればいいのだが、ブザーは「ブー」と長い時間鳴り続ける。やっと止めたかと思うと、数十秒後また鳴る。止めて鳴り、止めて鳴りを数回繰り返す。目覚ましのボタンが壊れているのか。睡眠を阻害されるので腹が立つ。 

これが毎日続いた。夜寝るときは、耳栓が欠かせなくなった。

とうとう我慢できず、管理人に相談し、目覚ましを使わぬよう言ってもらった。なぜ、そんな目覚ましを使わねばならないのか、スマホのアラームでいいだろ。音量も調整できるし。そもそも目覚ましの音なのか。何の音なんだ? 何のために夜中に鳴らすんだ?

しかし、隣の住人は目覚まし時計を使うのを止める様子はなかった。すぐにブザーを消そうという意思は多少なり感じられるようになったが、「ブー」の音は毎日続いた。

「こりゃダメだ」と、またまた引っ越しを考え出したとき、管理人から隣の部屋の住人は11月の終わりに引っ越すと知らされた。「ハー、よかった」と思ったが、待たねばならない1ヶ月はすこぶる長く感じた。ブザーの音が鳴るたびに、頭のなかに「不条理」という言葉が沸き起こってきた。自分が悪いことをしていたから復習を受けるとしたら、因果の関係として理解できる。だがこの場合、因果の関係ではなさそうである。自分は相手に何もしていないのに苦しめさせられる。ま、それでも、こんな不条理、何も悪いことをしていないのに、戦争やテロにまきこまれ、家を追われ、財産を奪われ――、そのような被害者と比べればかわいいものである。忍耐力を鍛えるいいチャンスかもしれない。しかし、それでも、人間とは弱いもので、蚊が一匹部屋にいるだけで夜寝つけず体調を崩したりしてしまう。それを思うと、このブザーの「ブー」もなかなか侮れない。

いや、それとも、自分が神経過敏のノイローゼではなかろうか。自分自身の地盤も怪しく揺れる。

とにかく、ブザーの住民がいなくなり落ち着けるようになった。次は隣の部屋にどんな住人が入ってくるのだろう。静かな人であればいいのだが。

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2017年11月24日

食べ残す文化

日本国で生まれ育った人は普通、食べ残すことに対してある種の罪悪感を感じるのではないかと思う。それは人間の本能的な感覚なのか、教育によって植え付けられた観念なのか、よくわからない。ヨーロッパでもきれいに食べることは一種の美徳のようで、皿についたソースをきれいにパンで拭きとって食べ切るというのをどこかで見聞きした覚えがある。

だが、タイにきて驚いたことの一つに、タイ人の食べ残しをよく見かけることだ。経済的に貧しい国はきれいに食べ切るであろうという先入観があるが、どうやらそうばかりでもないらしい。もっともタイは経済的に貧乏という時代でもなくなっているが。

とある安食堂で。
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食事をした人が立ち去ったあと。この食堂は小汚く、もっぱら庶民が利用する安食堂で、上流階級が食べた後でも、クマが食べた後でもなく、底辺庶民が食べた後であろう。

これは決して特別な光景ではない。タイ人は「モッタイナイ」と思わないのだろうか?

温暖で雨もよく降る土地なので歴史的にも飢えた経験がなく、食べ残しても平気なのか。確かに生態系の循環で考えると、〈食べて糞をして・それが土に還って・植物はそれを栄養として育ち・人はそれを食べて〉が順当だが、〈食べ残し・それが土に還って・植物はそれを栄養として育ち〉でも問題はなさそうである。微生物にとってはどっちでも構わない。食べ残すことに罪悪感を感じるのは文化であり、洗脳された人間が抱く幻想なのか。

そうはいっても食べ残された食物を見ると、「もったいないノオ」という侘しさや、「いまに罰が当たるゾ」という不吉な思いが脳裏をよぎる。

posted by 逍遥居士 at 17:35| Comment(0) | パワーニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月02日

尻もち

尻もちをついた。
若い頃だったら、ただそれだけのことだったかもしれないが、オッサンになった現在、これが結構こたえた。

洗面所で濡れた床のタイルを、柔道でいうところの足払いのようにして吹き払っていたら、ツルッと足を滑らせ、垂直落下式にズドンと尻を硬いタイルに打ちつけた。

「うっ・・・」

尻が痛いというより、息が苦しくなった。肋骨か背骨が圧迫されて呼吸に異常をきたしたようだ。ま、怪我というほどのこともなく、そのまま普段の生活どおりご飯を食べたわけだが、いろんな部分に痛みが残った。翌日、バイクに乗ると、道路の小さな段差で肋骨と背骨に不快な痛みが起きた。やれやれである。痛みがまったくなくなるまで10日ほどかかったが、とりあえず治ってよかった。

子どもの頃『尻もち』なんて言葉を聞いても、怖い印象なんてまったく起きず、他愛のない、ユーモアの含んだイメージしかなかったが、それは強烈なダメージを負う警戒しなければならない言葉に変わっている。昔ジャイアント馬場のスローモーなプロレスを見て馬鹿にする気持ちしか起きなかったが、よく考えると、中高年になった2メートルもある巨漢が、マットに倒れるというそれだけで実はなかなかスゴイことなんだとようやく気づかされる。

人生は歳によって世界の色合いが変わってゆくものだ・・・・。

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2017年10月27日

国王の葬儀の日

10月26日、昨日はタイの前国王の葬儀が行われた。

前日から聞いてはいたが、コンビニやスーパーが休みになり、食堂もほとんど開いていない。市場に行ってみたら、少なくはあったが商売をしている人がいた。当然だが、厳粛な日でも、人間腹は減るもので、経済活動をゼロにはできない。

しかし、食堂がほとんど閉まっているのには参った。何を食べたらいいんだ。買っておいた、パンやインスタントラーメンではひもじい。
 
町をウロウロしていると、電気がついて活気づいている店があった。赤い看板のマクドナルドである。外資系のレストランは強気に商売をつづけられるようだ。とにかく食べるものが欲しかったので数年ぶりにマクドの店内に入った。他店がほとんど休みということもあり大盛況である。それとも、いつもこんなふうに賑わっているのだろうか?

ひさしくマクドに行っていなかったので、どうやって注文したか忘れてしまった。セットメニューを大々的に売り出していて、単品をどうやって頼めばいいかわからない。注文する順番がやってきたので、とりあえず知っている「チーズバーガー」と「フィレオフィッシュバーガー」と言ってみた。発音が悪いようで、店員に何度も「えっ?」と聞き返され、しまいにはメニューの写真を指さされた。「そうそう、それそれ」といって写真を見て値段を確認しようとしたが、字が小さくて見えない。ま、ハンバーガーなんぞ安いものだろうと軽く思っていたら、店員は「ローイ・ホックシップ・バー(160B)」と言ってきた。「えっ、ローイ・ホックシップ(160)? ホックシップ(60)じゃなくて?」。日本円にして500円以上。日本で食べたとしても高い気がする。

ハンバーガー2つで160バーツ、あと20バーツほどだせば、鍋ビッフェが食べられる。パンにハンバーグを挟んだだけのジャンクフードのくせに、高級なお高い存在としてすましていた。タイ国内、マクドナルドがそこかしこに見かけるが、そんなインフレとも思える値段設定でも人気の地位を確立していたのだ。店内は学生が多く、そんな高級品ハンバーガーを若い子たちがむさぼっている。この子達の親は何をなさっている人なのだろう。チェンマイなんか何の産業もないし、タイじたい、グローバリズムの外資系企業のおかげで肥りあがっただけで、自分たちで何も生み出していない。そんなにたくさん金持ちの子弟がいるとは考えられない。

どいうこと?

ハンバーガー2つ160バーツでおののいている自分がビンボーなだけなのだろうか。

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2017年10月02日

足首をひねった

昼頃出かけようと、いつものように当たり前にアパートの階段をボヤ―と降りていたときのこと。「ハッ」と思った瞬間、グネっと足首が曲がって尻もちをついた。着地した右足に分厚い足ふきマットがあり、そのマットに足が半分はみ出して着地したらしく、足首をひねってしまった。

「足首の筋が伸びたゾ」と焦ったが、パキともポキとも切れた感覚がなかったので、「大丈夫だろう」と立ち上がった。足首は動くし、歩くことに支障はなかった。「やれやれ」。

「何だ、この足マット!」
いくぶん苛立ちを覚えながらマットを観察すると、予想以上に分厚いようで、6センチぐらいありそうである。これぐらい分厚いとそりゃ足首をひねって倒れるわけだ。

足首に鈍い痛みがあるので恐る恐る歩いた。

数時間後、用事を終えて部屋に戻り、取り敢えず昼寝休憩。数時間後、寝て起きたら急に強く痛みだした。座っているだけでガンガン痛む。「まずいゾ」と思い、足首を観察するが腫れている様子はない。大丈夫そうだがやけに痛むのでビッコを引いて歩かなければいけなかった。もう一つ夕方に用事があったので必死で痛みをこらえて出かけ、夜に帰宅した。

いつものようにシャワーを浴び、体を拭こうとしたらやけに寒く感じる。足の治療のため、体の抵抗力がそっちに回って、体が冷えているようだ。

数時間おとなしく椅子に座っていると、少しずつ痛みが和らいできた。翌日には、まったく痛みもなく普通に生活できた。

あの痛みは、体が精一杯治療をしてくれていた証だろう。道路工事に騒音が起こると同じである。生命の神秘といってもいい。体に何も命じなくても、最良で的確な仕事をしてくれる。ありがたや、ありがたや。でも、体重のかかり方次第でプツといっていたら、大変な事態になっていた。油断大敵。天災は忘れた頃にやってくる。気をつけるべし。

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2017年09月13日

タイと犬

夕暮れ時のお寺の礼拝堂、僧侶が集まり読経をしている。そんな厳かな光景をパシャリ。
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が、こういう場に犬がゴロリとしている。いかにもタイである。

どうしてタイにはたくさん野良犬がいるのか、何事もきっちりと分別をつけたがる西洋人や日本人にしてみればもどかしくもある。

どうして野良犬なのか?

考えてみるに、犬を許容してしまう懐の深さは、宗教観からきているように思われる。仏教では、殺生は禁じられているし、輪廻の思想がある。あの犬も前世は人間だったかもしれない、人間に生まれたくても犬にしかなれなかった気の毒な存在なのだと、犬と人間の間に上下関係を作らず、同じ目線で犬を見る。

キリスト教はそうはいかない。神がいて、その神の子が人間である。人間は神の子なので、自然を自分たちの都合がいいように開発し、管理しなければならない。自然はイイものではなく、我々を困らせる存在だという前提である。だから科学が生まれ、現在の社会システム(大量生産、大量消費、大量廃棄)が生まれた。

犬はペットとして飼うべきで、危険な野良犬は西洋社会では許されない。どうしても、神か悪魔か、白か黒かと二分方式のはっきりしたものになり、「ま、適当に」「いい塩梅に」という曖昧さ、グレーゾーンでは放っておかれない。西洋でも日本でも野良犬がいたら保健所が即、処分である。人間社会のために当然のことである。

日本は完全に西洋化してしまった。自然を改変していくという考えは、明治時代の市民は受け入れにくかったと思う。なんせ「山川草木悉皆成仏」である。自然は手を合わせる存在である。精神の葛藤をきれいに拭い去るために、時の政府はいろんな政策、例えば廃仏毀釈などの宗教放棄を行ったのだと思う。テクノロジーと経済を発展させることが立派な国だという観念を植え付け、それを常識と化してしまった。もうお寺に野良犬がゴロゴロしている風景はもう日本では見られない。そんなものはジャマなだけだから。

でもタイはまだ、人間の自然支配(西洋化)について、はっきりとした立場をとれていない。仏教思想に頼れば、貧乏になるし、経済は発展しないし、不便なままである。仏教を放棄すれば、社会の表向きの発展はなされるが、国のアイデンティティを失う。現在は曖昧な立場で経済と便利さだけのいいとこ取りをしようとするから、社会を管理しきれず、交通渋滞は起き、ゴミは散乱し、川は汚れていく。

お寺で寝そべる犬は、西洋化を拒む最後の砦なのかもしれない。犬がお寺にいなくなったとき、お寺には仏像ではなく十字架が安置されているかもしれない。

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2017年08月06日

妖怪ケムさん

ケムさんに出会った。ムーンサーン寺というマイナーなお寺近くの細い路地だった。ケムさんに出会うときはいつもこのように、誰か知り合いに会うなんてまったく思ってもいない意外な場所で、不意に出会う。前回は安いベジタリアンの食堂で飯を食べていると、背後から低い声で「お金をください」と囁かれ、振り向くとケムさんがヒヒヒと独特の笑い方をして突っ立っていた。

ケムさんは仕事が不明である。自称・英語のガイドと言っているが、一人一台スマホを持ち情報を収集する時代、ガイドの仕事も先細りで、しかも、ガイド向けの性格(信頼でき何でも任せられるとか、情報通だとか、フットワークが軽いとか、愛嬌があるとか)でもないので、頻繁に仕事があるとは思えない。以前は寺男(お寺の雑用係をして住む場所と小遣い銭を提供してもらう)をやっており、それはノラクラしている彼にとって天職に思えたが、なぜだか寺男からも遠ざかってしまった。それ以前、象使いの見習いをやっていたことがあると聞くが、それも長く続かなかったらしい。長く続くのは意味不明なまま、フラフラしている状態のときだけである。

ケムさんと話すときはタイ語と英語と日本語を混ぜて話す。ケムさんは日本語をカタコト話すが、それは会話が成立する一歩手前の「使えない状態」なので、会話として成立しない。ケムさんが話すことといえば、「ニホンジンのオンナ」、ほとんどそれである。彼は日本女性が大好きならしく、町で日本人女性を目ざとく見つけ、話しかけるという活動を勤勉にしている。なぜ、そのことに情熱を燃やすのか、それというのも彼の昔のワルイ仲間達が日本語を身に着け、それでもってナンパに励んで性愛を充実させ、最終的には結婚して日本へ働きにいったという者が数人いて、彼にとってそれは「ジャパニーズ・ドリーム」で、そういう生活を夢見ているようだ。

だがケムさんは三十半ばのオッサンだし、日本語はできないし、金はないし、オシャレでもないし、ユーモアのセンスがあるわけでもないし、車もバイクもないし・・・・、の、ないない尽くしである。素晴らしい才能と思えることは、「人見知り」の反対、誰にでも声をかけ知り合いが多いということ。話し上手というわけでないが、とにかく正体不明のままヌラっと相手に切り込んでいき、ヒヒヒと笑う。想像しにくいと思うが、そういう人なのである。

ケムさんと初めて出会ったのはどこだったか、はっきり覚えていない。多分、ワット・プラシンの境内の休憩所であろう。そこに行くと、日本語を勉強したい若者が集っていて、なんとなく仲良しグループのようなものが形成された時期があった。夕暮れ時、「みんなで飯でも行こうか」という話になると、ケムさんも存在感を消したまましらっとついてきて、タダ飯を食べて、じゃあねと解散する。「なんだろう、あの男は」と不思議に思っていたが、何年たっても(10年以上たっても)そのキャラのままである。水木しげる先生の妖怪の解説書の中で「ぬらりひょん」という妖怪のボスがいるのを思い出す。その妖怪は、みんなが忙しくしている夕暮れの時間帯に、勝手に人のうちに入り込んでタバコを吹かしたり茶を飲んだりして、自分の家のように我が物顔で振る舞う。追い出すに追い出せず、その家にいつのまにか居着いてしまうという。「だからなんなんだ」ともいえる妖怪だが、ケムさんも「ぬらりひょん」と同族の妖怪に見えなくもない。

ケムさんのご家族の方は、彼のことをどう思い、どう扱っているのかは不明だが、ケムさんはこの調子でフラフラ生きていくのだろうか。どういう将来のプランを持っているのか聞いてみたくもあるが、想像するに、何も考えていないに違いない。「ウヒヒヒ」と笑ってまさにケムに巻くのであろう。そうはいっても、人類が定住生活を初めて10万年、長いスタンスで人類史を見てみれば、将来のことを考えない人間のほうが自然で健康的であるともいえる。とにかく現代は不安を煽る時代であり、「金が全てであり、金がなかったら人生もう終わりです」と拝金主義的思想を背景に脅す時代でもある。

将来のことを不安がる人は、是非ケムさんに弟子入りしたらいいと思う。言葉で伝達する知識はほとんどないと思うが、なんとなくラクな気持ちになると思う。「こういう生き方もありなのか」と。しかし「この人、大丈夫か」と別の不安がよぎるかもしれない。

ケムさんに弟子入りを志願したい人は、彼に幾ばくかのお布施をお忘れなく。
posted by 逍遥居士 at 18:19| Comment(0) | 徒然なるエッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする