2019年04月18日

パン作り修行 3日目

14日、この日も早起きし、パン作りを始めた。今日こそは「合格点のパン」を作ってやろうと意地である。だが、あくまで「合格点のパン」であって、「とびきり美味しいパン」ではない。「そこそこのパン」でいいから作りたい。2回パン作りにチャレンジして、美味しいパンは素人には作れないことはわかった。「素人」というか、「きちんとした道具と設備と材料をもたない人」と言ったらいいか。

パン作りの重要な点、それは「水の量」である。2度の失敗によって2度の教訓を得た。レシピに従うでなく、状況を見ながら調整したほうがいい。だから小麦粉に水を入れる際、レンゲで一匙ずつ小麦粉に入れてかき混ぜ、ゆっくりゆっくり馴染ませていって水の量を調整した。その甲斐あって手を生地に突っ込んでもニチャニチャ引っ付かない硬さに調整することに成功した。3日目にしてようやくまな板の上に生地を載せて手でコネるという作業に到着した。

「やりたかったのは、コレだ、コレーー」
だが、コネ始めたが、どうもしっくりこない。なぜなら台が揺れて不安定だからだ。部屋にあるテーブルは折りたたみ式の簡易テーブル、両手で思い切り体重をかけると壊れそうで危うい。そこで化粧台の上を掃除し、そこにまな板を置いて場所移動。安定した上で再びコネを開始。

練っては伸ばし、練っては伸ばし、体力が要る。今度は水が少ないのか、伸ばすのが難しく、生地が「干し柿の表面」のように粉っぱい。水を少量加えながら調整しコネること30分、一応一次発酵の準備が整った。

ーー1時間の発酵タイム。

再びコネ回し、大きさを整えて鍋の上に載せた。今回は熱が全体にムラなく通るよう、細長の形を選択。イースト臭がしないよう念のため、もう一度1時間放置。それから焼きに入って25分、完成したパンがコレだ。
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下にある丸い形のパンには、市場で買ってきたトンカツが入っている。いわゆるお惣菜パン。もうちょっとカッコよくいえば、ロシア料理の「ピロシキ」風。(ピロシキというハイカラな料理を食べたことはないが・・・。)他にもバナナを入れてやろうかなどといろいろ考えたが、まず、まともなパンが完成しないのに応用編に手を出すのは早計だろうと踏みとどまり、応用編はトンカツ入り一つにとどめた。

さあ、とにかく味である。
今回は水の量を抑えて十分コネた。バターも入れた。発酵時間も十分にとった。形を細くして熱が行き渡るようにした。もうスキはない。これで美味しくならないわけがないだろう。が、パッと見た感じ、「美味しそう」には見えない・・・。

さあ実食。
パクリーーと、ひと噛み。
「か、硬い・・・・」
やはり昨日までと同じように、外はカチカチであり、中はニチャニチャ。「ウーン・・・・」、ハッピーな気持ちになれない。

次にピロシキ一号。
フンワリしたパン生地だとトンカツも活きるだろうが、パンが硬くてコレもウーン・・・・。

結論ーー
パン作り修行、合格点ならず。

どうして何だろう・・・・。
小麦粉の問題なのかなあ。

翌日もソンクラーン休みで時間はあるが、残念ながらパン作りする気力はもう失った。まだ小麦粉は半分以上残っているが、どうやってもフワフワパンができそうな気がしない。それなら、最初から硬くなることを承知の上で「田舎風ビスケット」を作って、カチカチ感を楽しもうか。

しかし、どうして「バーン・ベーカリー(町のパン屋さん)」のパンはあんなに美味しいのか。長らくご無沙汰しているが、無性に美味しいパンが食べたくなってきた。
 
本日の名言。
「マズさを知って美味しさ知る。マズさがなければ美味しさもない」
勉強になりました。

posted by 逍遥居士 at 17:23| Comment(0) | 徒然なるエッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月16日

パン作り修行 2日目

どうして美味しいパンができなかったのか? どうしてオシッコ臭くなったのか? 考えてみた結果、以下のように結論づけた。
@発酵時間が足りなかった。 
Aコネが足りなかった。
Bドライイーストの量が多すぎた。 
Cこねる以前に水の量が多すぎた。 
Dそれともバターを入れなかったので、生地がネチャネチャになったのか?

「よし、ならばーー」と夜にスーパーに出かけバターを買った。銀紙に包まれたものではなく、一個一個がプラスチック容器に小分けされたものを購入。これだと室温で溶けても大丈夫。明日は美味しいパンが作れそうだ。

13日、早起きし、パン作りの支度をする。昨日経験したので要領は得ている。注意する点は研究済み、ドライイーストの量を少なめにし、発酵しやすいように砂糖の量を若干多めにし、水の代わりにぬるま湯を入れた。混ぜる際も、レンゲではなくシャモジで混ぜた。シャモジは面積が広いので混ぜやすい。

が、一つミスをした。水を昨日よりも少なくして入れたつもりだったが、それでも量が多かったようだ。混ぜても混ぜても丼鉢やシャモジに生地がヘバりつく。「ならば」とここで最終兵器の「バター」を投入。バターの油膜が生地を覆い、ヘバり付かなくなるであろう。

が、やっぱりへばり付いた。ニチャニチャになる原因はどうやらバターではなく、水の問題ということが浮き彫りになった。だが、対応策はYoutubeを見て研究済み。まな板の上に小麦粉をまぶし、生地の表面にも小麦粉をかけ、自分の手には水をつけ、それで手でコネてみることにした。結果、やっぱりダメ。手とまな板に生地がヘバり付いてコネることができなかった。

丼鉢に生地を戻し、シャモジで丁寧に混ぜる。そして1次発酵タイムスタート。1時間後、生地を見ると大きくなっている。ニオイだが、昨日に比べてイーストの酸っぱいニオイはしないが「ない」といえば嘘になる。微妙にする。再び、小麦粉を全体にちらし、シャモジでかき回す。そして、ダメ押しにもう一回、1時間の発酵タイムをとった。ここまで発酵させればニオイが消えてくれるはず。

そして、焼きに入った。昨日は適当に焼いたが、今回はストップウォッチできちんと計って、両面均等に焼くつもりである。25分後、焼き上がったパンがコレだ。
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欧州の田舎風パンをイメージして大型のドーム状のパンにした。

「美味しそう、いい匂い」とセリフを用意していたが、そのセリフが喉に詰まって出てこない。
「ウーン・・・・」と沈黙。

包丁で4等分し、さあ実食ーー。

外は「パリッ」とをイメージしていたが、「ガチッ」と硬い。中は「フワッ」とイメージしていたが、「ニチャ」と重い。「匂い」はというと、昨日の1号に比べて、オシッコ臭は少なくなっていたが、それでもクサイ。なんだろう、このニオイ。どこかで嗅いだことがあるが・・・・、とよく思い出してみたら、昔、中国を放浪していたとき、朝もやの中で売られていたパオズ(包子)に行き着いた。そう、アレだ。フーと息を吐くと白くなる寒い日の朝、湯気の出ているアツアツ包子はいかにも美味しそうだった。それを購入すると値段が異様に安く、なんだろうと思ったら、中に肉もアンコ入っていない、白いムチムチのプレーン包子。それをほおばったら鼻につくニオイがした。それがこのイースト臭。お腹は異常に膨れたが二度と食べたいと思わなかった包子だが、まさにあのときの味がここに蘇った。

一応、バターを入れたので、バターの匂いがイースト臭をコーティングし、幾分マイルドにしてくれているが、それでも「ハー・・・」と重たいため息。

点数をつけるとすると、手作りパン第1号が18点なら、2号は26点。進歩はしたが合格点には程遠い。この重くて硬いパンを食べながら、市販のパンが美味しく作られていることを改めて実感。

やっぱり、水の量だなあ・・・・・。
失敗点が浮き彫りになった。

「人生は遠回りすることで見えてくる風景がある」
おかげで名言が生まれた。

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2019年04月15日

パン作り

タイの正月ソンクラーン休み。町を歩けば水をかけられるので外に出ない。時間があるのでパン作りに挑戦した。普段当たり前に食べているパンだが、作ったことがなかった。何でもやってみると楽しいはず。そう思って予め材料(小麦粉、イースト菌)をスーパーで買っておいた。

12日、普段よりも早起きした。パン作りの準備。現代は情報がいくらでもあって、しかもYoutubeでは動画まで見られるからありがたい。が、問題が山積み。小生の部屋には道具類が何もない。最近「ミニマリスト」という言葉があるが、その先駆けの生活を20年前から送っていて、一般の人が持っているであろうものが何もない。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンはもちろんのこと、オーブン、電子レンジがない。電気鍋一つでパンを作るつもりだが、致命的な問題、道具ではなく材料の問題。バターがない。バターを保存するには冷蔵庫がいるが、冷蔵庫がないのでバターは買っておかなかった。「バターなしでできるかなあ」と一抹の不安はあったが、小麦粉を発酵させ、それを焼けば要するにパンになるわけだから、まあ、なくてもできるだろう。

が、作り始めて、というか小麦粉の袋を開封し、手が止まった。
「あ、計量器がない」
レシピには「小麦150グラム」などと書いてあるが、150グラムがどれくらいだかわからない。ここらへんは勘で適当にお茶碗一杯の小麦粉を丼鉢に入れた。他の材料、砂糖、ドライイースト、塩、水、レシピにはそれぞれグラム表示されているが、グラムが計れないので、グラムを比率に計算し直し、材料を丼鉢に入れた。「適当」を超えて、「デタラメ」の領域に足を踏み入れたかもしれない。

丼鉢に入れた材料をレンゲで混ぜ合わせるが、手を入れにくい状況であることに気づいた。動画ではみんな手でコネているから手でコネたいのだが、ネバネバとした小麦粉がいかにも手につきそうでコワイ。レンゲで混ぜていてもラチがあかないので、まな板の上にネバネバ小麦粉を移し、動画と同じように手でコネてみた。案の定、手にベタベタとつき、まな板もベタべタ、全然丸くならない。

ネバネバと格闘し、またそれを丼鉢に移し、1次発酵タイムスタート。1時間ほどすると材料は巨大化していた。よかった、酵母が働いてくれた。しかし、気づいた。部屋がクサイ。嗅いだことのある臭いだが、クサイ。すぐにイースト酵母の臭いだと気づく。それは決して香ばし臭いではない。やな臭い。ネコのオシッコを酸っぱくしたような臭い。「オエー」。焼けば臭いが飛ぶであろう。

材料をもう一度コネてお饅頭形にしようと、またまな板の上にのせたが、やはりネバネバ物体のままでコネられない。適当にレンゲで混ぜ合わせて電気鍋に移し、温度を200度にして焼きのスタート。後は待つだけ。

そしてできたパンがコレだ。
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初めて自分で作ったパンはさぞかしウマいことだろう。派手さはないが滋味のあるパン。噛めば噛むほど味が出てくるパン。なんせ添加物未使用である。大量生産のコンビニパンとはわけ違う。

さて実食。

パクリと口に含む・・・・。
言葉はない。
何と言ったらいいか、「ウーン・・・・・」、端的に言ってマズイ。苦労して作ったのにマズイ。派手さもないが滋味もない、噛んでも噛んでもイースト菌のにおいが生地に染み込んでいてクサイ。

失敗だ・・・・。

敗北宣言。プロの動画では「外はカリッと、中はフンワリ」などというコメントがあったが、小生の手作り第一号は「外はガッチガチ、中はネッチネチ」、食べるとズシリと腹にくる。何よりもクサイ。何とかならないかこの臭い。

ソンクラーン休みは続く。失敗の原因を追求し次につなぎたい。


posted by 逍遥居士 at 19:58| Comment(0) | 徒然なるエッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月07日

透明人間

チェンマイ旧市街を歩いていたときのこと、
道端で透明人間を発見し、すかさずスマホでパシャリ。
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透明人間は化けそこねたのか、下半身は丸見えである。小生は、「この広い世の中には透明人間になれる奇特な人が存在していたのか」と胸を高鳴らせ、さらに近づきもう一枚パシャリ。
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小生はインタビューを試みようと、
「やあ、昨今暑くなりましたなあ」
と声をかけ、肩口あたりにポンと手を当ててみたら、なんとびっくり、上半身は存在していなかった・・・。
「どいうこと?」
よく見てみたら。あーら残念、植木鉢にズボンを履かせただけのオブジェでした。♪チャンチャン

これを作った人はよほど暇だったのだろうか。こういうアイディアがひらめいても、実際に行動に出る人はほとんどいない。時間と労力とお金をかけてこのショーモないオブジェ(ショーモないと言ってスミマセン)を作った人は、余裕のある人生を送っている人だろうと推測される。毎日仕事に追われ、休日は家族サービス、疲労で肩が重く、目は眼球疲労をおこして充血し、冒険心の欠片すら失っていしまった人は、こういう意味のない作業はとてもできないと思う。誰かに命令されたわけではなく、お金のためでもなく、自分自身の内発性で行動できる、この透明人間の作者のような人がもっと世の中にいれば、この世はもう少し住みやすくなるのにとボンヤリ思った。


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2019年03月24日

骨折の教え

一ヶ月がたった。無事回復し、普段どおりの日常が戻った。が、一ヶ月前の同じ地点に立ったというわけではなく、小さな脱皮をしたような気分だ。
「明日という日が自動的にやってくるわけではない」
当たり前のことを今更ながら気づかされた。
渡された課題をどう解決していくか、違った方向に人生が歩みだしたようにも思える。

一ヶ月前のこと、まどろっこしい説明を省き端的にいうと、バイクでこけた。ただそれだけである。通り慣れた道なのに左折した瞬間、タイヤがすべって転倒した。とっさに両手をついたが顔も打った。アスファルトの硬さを感じながら、「やっちまったか」と冷静に思ったが、こういうときは脳が非常事態モードに変わるようで、痛みも何も感じない。後続のバイクがバイクを起こしてくれたので、左手が動かなくなっていたが、そのままバイクにまたがって帰った。

部屋に戻り、とりあえず一眠りしようと、服を脱ごうとしたが腕が痛くて服が脱げない。
ーーまさかあれぐらいの転倒で骨が折れるわけがないだろう。もしかしたら筋が切れたか・・・・。
頭をよぎった。腕を触ってもヘンテコリンな方向に曲がっていないから、やはり筋だろう。一日おいて様子を見て、具合が悪かったら病院にでも行くかと思ったが、一応知人に連絡したらすぐ病院へ行ったほうがいいと言われ、車で連れ出された。感謝である。

レントゲンを撮った結果、「骨折」とのこと。どこが折れているのか写真ではほとんど見えないが、微細な骨折のようである。骨折専門のお医者様は、「治るのには数ヶ月かかるが、手術して金属を埋め込めば5日で治る」とおっしゃる。値段は民間保険に入っていないのでほぼ実費、25万バーツ(80万円)だとおっしゃる。骨折よりも出ていく出費が痛い。複雑骨折ならともかく、どこが折れているかわからない骨に金属を埋め込むって、まったく意味がわからない。病院はチェマイでも有名な病院であるが、手術は頑なに拒否。診断書には「4週間安静」と書かれ、その日は痛み止めの薬や抗炎症剤などの薬を出され、病院から解放された。病院というところは時間がかかるようで、4時間近く経っていた。エアコンの効いた院内、体のエネルギーすべて骨折の治療にあたっているらしく、体がどんどん冷えていく。病院を出た直後ブルブル体が震えが止まらなくなり、凍え死ぬような恐怖を感じた。

治っていく経過は、痛みで寝れないのは最初の一晩のみ、一週間で腫れがひき、二週間で痛みがなくなり、三週間で動かせるようになり、四週間で骨折したことを忘れるぐらいになった。周りの人からは治りが早いと言われた。寝ているのは不健康に思えたので、直射日光を浴びて歩き回ったのよかったのか。「気合療法」も捨てたものではない。

小生はケチん坊なので、この経験から何かを学び取らなければもったいないと思い、思索する日がつづいた。そこで得られた気づきが、「明日という日は自動的にやってくるわけではない」である。

我々は便利な社会に生きている。それはシステムの中で飼いならされている世界である。そこで当たり前に生きていると、「人生は計算可能なものである」というような傲った気持ちになる。それは違う。我々は、明日は何が起きるかわからない未知の世界を生きているのである。だからこそ、明日この世界が崩壊しようと、明日死がおとずれようと、誰のせいにもできない。すべてを受け入れなければならない。だからこそ、いつでも感謝して死ねるように準備をしとかねばならない。

そのことを踏まえた上で、今の生活に欺瞞はないのかと自分自身に問うと、「・・・・・・」。そろそろ改革しなければならない。そろそろではなく、今すぐかもしれない。システムに浸かった生き方ではなく、片足をシステムの外においた生き方への転換ーー、課題は大きい。

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2019年03月17日

大気汚染

チェンマイの大気汚染が深刻になっているらしい。学校が休校になったり、マスクが無料配布されたりもしているらしい。

チェンマイのど真ん中に住んでいながら、「〜らしい」という間接的な言い方をするのは、自分自信がそれほど深刻に受け止めていないからだろう。「ヘェー」って感じである。

日本にいると花粉症になる。だから花粉症報道には敏感になるが、このチェンマイの大気汚染では肉体的な影響が何も出ないのでそれほど深刻になれない。それと、大気汚染の原因は、山で野焼きをするからだというのもある。「木の煙ぐらい何じゃ」と軽く見ている感がある。木を燃やした煙よりも、町中を白煙黒煙を撒き散らしながら走っている車をなんとかして欲しい。NOX、SOXの含んだ煙を吸い込むほうが体に有害だと思うが、科学的にはどうなのだろう。

昔の日本の民家には囲炉裏があった。家の中で焚き火をしているようなものである。住人は煙で燻されているようなものだと思うが、現代の大気汚染という尺度を昔に持っていったら、そのころの住人の健康被害はどれほどのものだったのだろう。肉体が健康であれば、体の持つ「防衛力」で何も問題はなかったと思うがどうだろう。人間は強いようでいて弱く、弱いようでいて強かったりする。目に見えない花粉程度のもので、肉体が不調になってしまうことを思えば、煙といっても侮ってはいけないのだろうか。

だが、人間は自己暗示で病気になってしまったりするから、深刻に受け止めないほうがよさそうだ。「放射能」じゃないんだし。プロトニウムという放射線の半減期は10万年だという。原発がハネたというとあまりにも深刻すぎる問題だが、それと比較すると、やはりたかが「野焼きする煙」であろう。

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チェンマイの夕日が大きかったので撮ったが、うまく撮れなかった・・・・。空気が悪いので山が見えない。



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2019年03月08日

ビザ延長という名のイニシエーション

1年に一度必ず通過しなければならない儀式が終わった。ブログのタイトルにもあるように「ビザの延長」である。

チェンマイイミグレーションが新しくなってから初めてのビザの延長。毎年、外国人はこの通過儀礼に悩まされている。時間がかかるし、朝早く行って早い順番票を取らなければならない。新しいイミグレになって効率的に仕事がされるようになったとの噂を聞き、今回は、まだ暗い早朝に出発せず、8時頃に家を出た。

8時半頃イミグレに着き、順番票は13番目、何か早そうな番号だった。「90日レポート」というメンドーなもう一つの仕事も同時にこなし、10時前には一年間のビザ延長の許可のスタンプが捺されたパスポートが返ってきた。以前と比べて驚くべき速さ。「やれやれ、終了」とほっと一息つき、もう一つの仕事、「リエントリーパーミット(タイ国外に出るときにビザが無効にならないための手続き)」をしようと、また受付に並んで、係員に必要書類を見せた。が、係員曰く、「ビザのコピーが足りない」とのこと。今取ったばかりのビザのページのコピーがいるらしい。

「けっ、メンドくさいことを言いやがる。今日ビザの延長したんだからコピーがなくて当然だろ」
心の中で悪態をつく。

「コピー機はどこ?」と尋ねると、「建物を出て向こう」と言う。建物を出てキョロキョロ周りを見渡してもコピー機がないので、また戻り「どこ?」と聞きなおすと、何でも交通量の多い前方の道を渡って、向こうの建物へ行かなくてはいけないらしい。

「ゲッ・・・・」
やる気が失せてしまった。どうせしばらくしたら捨ててしまうだけの書類一枚のために、なんで危険を侵してあんな所まで行かなければならないのか。そもそも職員が使っているパソコンにプリンターがあるんだから、一枚ぐらいそこでコピーをしてくれたらいいのに。係員に不条理を突きつけられ、消化しきれない思いが頭の中を駆け回る。

「帰ろう・・・・」
必ずまた来なければいけないが、帰宅することを選択。やってられない。

胸の中をモゴモゴする苛立ちを抱え、そもそもビザの延長ってなんなんだ、といろいろ考えてみた。

ビザ延長というのは要するに在住外国人に対する嫌がらせのようなものなのか。疑似共同体である「国家」、タイという国に外国人が疑似共同体の一員として認められるための苦難のハードル。それがビザ延長という名のイニシエーション(通過儀礼)である。意味のないことを忠実にこなす従順さによって共同体の一員として認めてもらうというわけか。人間社会の中には必ずこういう不条理が内包されている。それは外国人だけではない、国民すべてが、法による国家の統治というもので目には見えない圧迫を受け、それが不条理と化し、さらには暴力となる。

200万年前にホモ・サピエンス(人間)が誕生し、1万年ほど前に農耕が始まった。狩猟採集から農業、これが人類の重大な変革点、人類は存続では満足せず、繁栄に向かって歩みだした。農耕によって定住生活となり「法」が生まれ、「身分」が生まれた。所有権が必要だったから。それから間もなく文字を作り知識のアーカイブに成功し、金属の精製によって技術力が増した。それからじわじわと文明を進化させ、200年前に産業革命、100年前から石油を使いだした。そして現在は情報革命とやらへ進化。

だが人間そのもののDNAは200万年前から変わっていない。所詮はおサルさんである。「法」で縛って疑似共同体を作ったはいいが、「法」で縛られることに身体がついていってない。それは窮屈であり息苦しい。ビザの延長が終わって「ほっと一息」つくというのも、それだけ身体は法によってストレスがかかっていたからである。我々の生活はこのように目には見えないバリケードが張られた空間を、おっかなびっくり避けながら生きていかなければならない。狩猟採取生活のときにはこんなストレスはなかったはずだ。

社会学者の先生によれば、そういった法による身体的な圧迫を解放するために、どこの民族にも「祭り」があり、「祭り」という無礼講によってストレスを発散させてきたという。法を作れば、「法外」というものも社会の中に必要になるわけだ。法を作り、法さえ守ってさえいれば、社会は平和を保てると思っている「法令遵守主義者」が最近横行しているが、そういった人たちは、権力に完全に家畜化されたペット型人間か、社会に洗脳プログラミングされたロボット型人間だろう。ペットは自分がペットであることを客観的に認識できず、悪質な権力にまかれることを善しと受け取って非情となるから厄介である。

法外は特に祭りに限ったことだけではなく、密接な個人間のつながりにもある。家族で喧嘩して、いちいちその文言を録音して裁判に訴え、すべて法の上で解決してもらおうなんて、奇妙な話だろう。人と人との結びつきは感情の共感性である。相手の心が自分の心に響くところに、人間が人間たるゆえんがある。法で保証された人と人との結びつきなんて、真実性があるのか。だが、日本は法外の重要性が無視され、法を遵守させる方向に一直線に向かっている気配がある。法ばかりが重要視され、法外が無視されていくとどうなるか、人々はストレスに耐えきれなくなり、ドカンと「戦争」という最大級の法外に180度シフトしてしまうかもしれない。こんな窮屈な人生を送るぐらいなら、戦争のほうがましだ、と。

社会に法外という領域を、あいまいな部分を、「まあ、まあ、まあーー」で済まされる部分を残しておいて欲しい。ビザも、適当にしてもらえたらありがたい。

posted by 逍遥居士 at 18:19| Comment(0) | 情報ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする